大阪高等裁判所 昭和25年(う)158号 判決 1950年4月05日
被告人
田辺信一
外一名
主文
本件控訴はいずれもこれを棄却する。
理由
被告人田辺信一弁護人江島孝の控訴趣意第一点について、
被告人が進行性麻痺のためその記憶力減退し心神耗弱者であることは原審の確定するところであるが銃砲等所持禁止令にいわゆる所持は物を保管する意味においての実力的支配関係の存在であつて、一旦かような関係が成立した上は所持人が常にその物の所持を意識している必要はなく実力的支配関係の継続する限り病氣その他の理由によつて一時的若しくは相当久しい時間に亘つて物に対する意識を全然喪失した場合であつても尚その所持を喪失したことにはならない而して原判決の挙示する証拠によれば被告人は元陸軍將校であつて本件の拳銃を私物として入手し終戰により復員して原判示自宅に帰つた後はこれを軍裝用行李の中に納めて保管しその後同居の妻田辺照子において置場所を神棚の上に変更したがなお被告人の住宅内に保管して昭和二十三年六月頃相被告人三木弘に預け渡すまで実力的支配関係を継続していた事実が認められるからたとえ被告人がその間病氣のために記憶力減退して自宅に拳銃のあることを全然忘れていたとしてもこれを所持しなかつたと云うことは出來ない。即ち原判決摘示の事実はその挙示する証拠によつて優にこれを認められ原判決の事実認定に誤りあることを疑うに足るべき証跡は全記録を通じて見当らないから論旨は理由がない。
(弁護人江島孝控訴趣意)
原審に於ては「被告人は進行性麻痺の爲記憶力減退してゐるので心神粍弱者であるが、昭和二十三年六月頃法令上認められた場合でないのに拘らず肩書自宅に於て九四式拳銃一挺を所持してゐた」なる旨事実を認定し被告人を懲役四月(但三年間執行猶予)に処した。
(一) 原判決には判決に影響を及ぼす事の明かな事実の誤認がある。銃砲等所持禁止令第一條に所謂所持とは其立法趣旨に鑑み当該物件に対して之が保管につき支配関係を開始してこれを持続する所爲であると謂はねばならない。(昭和二十四年五月二十六日最高判例)然るに被告人は原審に於ける証人田辺照子の供述により明なる如く昭和十二年頃應召中に精神病に罹り新京、岡山、千葉等の陸軍病院の精神科の鉄格子の中に收容されてゐたことがあり弁証第一号野崎公明作成の外來カルテの写により窺知出來るが昭和十九年一月頃も精神病の爲め岡山大学医学部に診察を求め進行性麻痺と診断されてゐる。又昭和二十年再度の應召中も原審に於ける証人前野賢治の「田辺隊長はロボツト中尉とか阿呆中尉とかいつて実際の事務は田代といふ中尉が全部してゐました」なる供述により明なる如く病状快方に向つてゐたとは考へられず、終戰後も同証人の「田代とは昭知二十三年九月頃から商売上の関係があるが同人は物忘れすることが多く商売上差支えましたので私は一寸頭がおかしいやうに思ひました」なる旨の供述により明なる如く病状は依然として快方に向つてゐなかつたのである。然らば被告人の原審に於ける「昭和二十年九月初頃帰郷する際拳銃を自宅に持つて帰つたことは記憶しますがその後は全然忘れてゐました」なる旨の供述は措信するに充分である。通常の精神状態の者ならば終戰後拳銃を軍隊から自宅に持帰り其後も自宅にある以上特別の事情なき限り單に忘れてゐたと云ふ程度では其後の支配関係を持続してゐないとは謂はれないが、被告人は原判決も認める如く進行性麻痺であるから其忘却の程度たるや普通一般人とは同樣に考へられないのである。被告人は昭和二十年九月初頭拳銃の所持を意識してゐたことは明であるが其後次第にその意識を失ひ判示の昭和二十三年六月頃は全く喪失してゐたもので拳銃の保管につき支配関係を持続してゐたとは謂へないたとへ被告人の住居に被告人の妻によつて保管されて居り所有権は被告人に属するものとは云へこれを以て直に被告人に所持の認識即ち故意ありと断ずることは出來ぬ。
果して然らば被告人に故意ありとして懲役刑に処した原判決は明に事実の誤認があるので破棄の上無罪の判決を下されんことを御願ひする次第である。